・研究史
Tsukumoは、現時点における第1群不可視生物研究の中で最も新しく発見された存在である。先述の通り、かれらはめったなことではその存在を認知することは不可能であり、これによって多くの不可視生物研究でカギとなる「目撃情報」、及び何らかの「痕跡」を入手することができず、結果として長らく不可視生物について研究を行ってきた我々でさえも、この、ある種最も身近に存在するはずの不可視生物の存在を全く認識することができなかったのである。
前項で挙げられたような、閉じられた小さな「壁面」として、様々な道具類の表面上に生息するWallfishの存在の可能性を考える研究者はTsukumoの発見以前より一定数存在していた。「壁面」というものと「道具類の表面」というものとの間にある曖昧さ…箪笥という大型の「道具」の表面と壁の表面というものには、その概念以上に如何程の差があるといえるのであろうか?…を考えれば、そうした種の存在も当然考えられるものであっただろう。しかし、その予想に反して、過去の調査の中でそれらの採取に成功することがなかったことは、これまでのかれらの驚くべき生態に関する解説を読んだ諸君であれば容易に想像がつくことと思われる。このことで結論付けられた仮説は、Wallfishというものは、ある程度の広さのある壁面でなければ、あるいは移動することの少ない、固定された壁面でなければ生息を好まない、というものであった。この点は、「額装」したWallfishが、今のところ何ら生存反応を示そうとしない点と関連付けられることもあった。
こうして長い間、我々はごく身近に存在するはずのこの不可視生物の存在について、なんら感知することなく過ごすこととなったのである。
しかし一方で、こうした物品にまつわる怪異について、我々が全くその存在に関心を払わなかったかというと決してそのようなことはなかった。先述の通り、器物にまつわる怪現象というものはこれまで世界中に数多くの事例があったわけであり、こうした通常動くはずのない無機物の物品などが動く、という怪異について、そうであるならば何かしらの「不可視の存在」がその現象に関連しているであろうことは容易に想像がつくことであるからだ。しかしかれらの存在がまだ知られていない研究初期では、こうした事例を寄生する不可視生物ではなく、既知の(比較的自由に動き回れるであろう)不可視生物たちが物品に干渉していると考えるものも多く存在していた。Atmospheric beastsやWallfishなどが進行において邪魔となる物品をどかしたり、興味を持ったものを拾い上げるといったことも十分考えられたのである(これについてはAtmospheric beastsに頭足類説があることも関係している。一部の頭足類には道具を扱うという報告がなされているからだ)。そのため、研究者の中には、こうした既知の不可視生物たちの痕跡―例えば、産み付けられた卵や体組織の断片など―が見つかることを期待し、怪現象の発生したとされる物品を収集するものもいたのである。
一方、物品に対する未知の不可視生物の寄生、あるいは物品それ自体への擬態に器物の怪の原因を求めた研究者たちの根拠は付喪神、器物に化ける動物、悪魔の取り憑く器物…といった古今東西の「伝承」であった。つまり、かれらは世界各地において「化ける」とされる様々な物品を(実際にいわれのあるものから、同様の機能を持つ現行品まで)くまなく調査し、入手できるものは調達収集して研究を行ったのである。
結果として、研究者たちの何人かはそうした物品から「何の前触れもなく」未知の不可視生物が出現するのを目撃した。そして、確信を得た彼らはほかの不可視生物と同様の捕獲プロセスを両派が収集した様々な物品に試行、結果として何体かの拓本記録に成功したのである。
運よくかれらの記録に成功した我々は未知なる不可視生物たちの発見に大いに驚いたが、奇妙なことにそれからしばらくの間、あらゆる土地土地でこのような器物に寄生する物体の報告が相次いだ。残念ながらその多くはそれ以降何らその痕跡を捕らえることはできなかったが、それに際し我々が収集した類似する物品の一部からも同様の存在と思しきものが出現、拓本による記録に成功している。これによって、我々はごく大まかながらもその特徴を分類できる程度に様々な種類の寄生性不可視生物、「Tsukumo」の拓本を収集した。
これまで、少なくとも現代において何らこうした存在の目撃情報が存在しなかったのにもかかわらず、なぜ最近になって突如としてかれらの存在が報告されるようになったのかは謎に包まれている。その理由として現在注目されているのは、今という時代が、かれらの「可視・可触期間」の周期に合致しているからだとする説である。この説では、このかれらの持つ特殊な周期は人間の一生よりもはるかに長いものであるという。我々が長い間かれらを認知できなかったのはそのためであり、今我々がかれらを認知するのは、幸運にもその周期と我々の世代がぴったりと重なり合ったためであるというのである(ちなみに一説では、直前の「合致」こそが妖怪変化はびこる室町~江戸時代であったとも考えられている。)。
裏を返せば、もしこの説が正しい場合、記録に失敗した個体は次の周期が来ない限りはその存在を確認することはできない。器物の表面を拓本してみて何の痕跡もみられることがなかったとしても、それが死滅やほかの何らかの要因によってかれらが気生物のもとを去ってしまったのか、それとも我々の「剥ぎ取り」技術が通用しないような、強固な質感擬態を行っているのかを判別することはほぼ不可能なのである。それを確認するためには、どれほどの長さか―下手をすれば数世代間にわたる時間―、そもそも真に存在するのかどうかも分からない「周期」の到達まで、その物品を保存し、ひたすらに観察し続けなければならないのである。世界中の怪異と関連する(とされる)物品を収集し、ただただ粘り強くかれらが姿を現すのを待機する―これが現時点において、我々が唯一行うことのできるTsukumoの研究作業なのである。
・「周期説」の簡単な図説。一度可視化を逃せば次の周期まで待たなければならないが、その間に人知れず消失している可能性についても考慮すべきである。同様の現象に対する示唆は京極夏彦氏の短編「十万年」にも見られる。
可視化
消失